この記事では、「タトゥー(刺青)」の歴史について紹介していきます。
●この記事の内容
□「タトゥー(刺青)」の歴史(日本)
皆さんは、タトゥー(当時は入れ墨)が日本でも歴史のある文化だとご存知ですか?
タトゥーと聞くと、海外のイメージが強いと思います。ですが、日本でも昔から様々な用途で彫られてきました。
この記事では、日本のタトゥー(刺青)の歴史について紹介したいと思います。
最後までご閲読いただけると幸いです。
□タトゥー(刺青)の歴史(日本)
タトゥーというと欧米というイメージがありますが、実は日本の刺青(入れ墨)文化の方が先と言われています。
日本の刺青は、出土された土偶の表面の文様が世界的に見ても古い時代の刺青を表現していると考えられ、縄文時代には刺青は既にあったと言われています。
縄文時代・弥生時代では身分を表すステータスシンボルや、装飾・まじないに使われていました。
戦国時代では死を覚悟した雑兵たちが、自分の名前や住所を指に入れ墨として彫り、「個体識別」として使う習俗があったと言われています。
江戸時代になると絵や物語で構成した入れ墨を全身に施すことが男らしさの象徴として鳶職人のあいだで流行り、このころから「彫り物」とも呼ばれるようになりました。
これは歌川国芳(うたがわくによし)をはじめとする、浮世絵文化が大きく影響していると言われています。
彫り物(刺青)は「生きた浮世絵」と呼ばれていました。
また、花柳界(かりゅうかい)では、遊女と客がお互いに小さな点を入れて愛を誓いあう「入れぼくろ」と呼ばれる入れ墨がありました。
愛を誓い合うだけでなく、再来店を促す接客術として使われていたそうです。
江戸時代中期になると中国の刑罰を参考にし、軽犯罪者の腕や額に入れ墨を施す刑罰が行われるようになりました。
前科が調べやすく、周囲に犯罪者であることを知らせて、警戒してもらうなどの目的がありました。
初犯は「一」、犯罪を繰り返すと最終的に「犬」になるように彫られていました。
入れ墨は消すことができないので更生する機会がないため、自暴自棄になり恐喝をする人もいたそうです。
明治維新後、新政府は外国人に対する配慮から入れ墨刑罰の廃止、装飾用入れ墨を施すことが禁止されました。
既に入れ墨を施していた人には警察から鑑札が発行されたそうです。
これらが現代社会におけるタトゥーの隔たりにつながったと考えられます。
彫り師たちに対する取り締まりは厳しく行われていましたが、海外の王族たちが体にタトゥーを入れていることが知られるようになってからは、だんだんと黙認される存在へと変わっていったそうです。
終戦後アメリカのGHO占領政策の1つとして入れ墨が合法化されました。
しかし、非合法だったころのイメージが払拭されず1960年代頃の「ヤクザ映画」の影響により、「入れ墨=ヤクザ」のイメージが広まっていきました。
高齢の方が入れ墨をよく思わないのはこのような背景があったからなんですね(-_-;)
まとめ
今回は「タトゥー(刺青)」の歴史(日本)についての記事でした。
タトゥーというと海外のイメージが強かったと思いますが、日本でも古くから様々な用途で使用されてきました。
一時廃止の流れや、当時の映画の影響などもあり、特に高齢の方にはあまり良い印象を持たれなくなってしまいました。
ですが近年では、海外スポーツ選手やアーティスト、モデルたちの影響でタトゥーを入れる若者が増え、タトゥーに対する固定概念も和らいできました。
おしゃれを楽しむタトゥーとして、ファッションタトゥー・プチタトゥー・ワンポイントタトゥーなどの種類があり、気軽に入れる人も増えてきました。
私もその一人です( ´ ▽ ` )ノ
ですが、一度入れると消去するのは難しいのでよく考えて、納得してから入れるようにしましょう。
勢いで彼女の名前を入れて、別れてしまった…。なんて人もいますのでご注意を!
自分の好きな絵、言葉を入れるのも良いですし、デザインや体の入れる部位によって意味を成すものもあるので、それらも深みがあって良いと思います。
今後の記事で、デザインの意味や、体の入れる部位の意味なども紹介していこうと思います。
是非そちらもチェックしてみてください!
最後までご閲読いただきありがとうございました<(_ _)>
Comments